命日なんて、ただのカレンダー上のひとコマ。
いつもそう思っているけれど、やはりそうもいかない。

今年はとても緊張した。
CHYが来てからはじめての命日。死別鬱が爆発して休職してからはじめての命日。
なんとなく、今までで一番、発狂するんじゃないかと思っていた。不安だった。

CHYは週休一日という、体力的に厳しい職場で、休みも不定期だ。
それが偶然、この日に重なった。

一人で静かに過ごしたい気もした。
一人でいっぱい泣きたい気もした。

でも、これもなにかのめぐり合わせだろうか。

朝、CHYにコーヒーをいれてもらうと、珍しく間違えて、しみっちのコップに入れて持ってきた。

コーヒーをいれるのはしみっち。だから、誰にも入れてもらわないと決めていた。
CHYが来て半年くらいした頃に、私は「コーヒー淹れて」と言った。
それは私にとっては緊張する言葉だった。しみっちがいるようなきがした。あいかわらず自分でいれないのかっ!って突っ込んできそうだった。

「なんでそのコップ使ってんだよ!それはしみっちのじゃん」

私が言うと、「このムーミンシリーズはわかりにくいのよ!」と言い返された。

なんだか、ちょうどいいから、私はそのコーヒーを仏壇に持っていくことにした。
そしてCHYも呼んで、一緒にお線香をあげた。

自然な流れで、手を合わせることができた。ほっとした。

その後はゆっくりと溜まった家事をしたりゴロゴロしたりして過ごした。

休日はいつもでかけたがるCHYだけれど、この日はあまりしつこく言ってこなかった。
CHYがいつものように昼寝をしている間、私はアトリエオンラインをやっていた。

CHYはADHDの一環として、よく寝る。
夜ご飯のあともCHYはソファで眠った。

私はアトリエオンラインをやりながら、0時を回るのを待った。
0時を回った。ほっとした。なにか大きなことを成し遂げたような気分だった。

0時を回ったら、CHYを起こして出かけたい、と少し前に思いついた。しかし・・・!
0時を回るとアトリエオンラインの日課も一新されるのであった。

アトリエオンラインの区切りがついたのが1時半くらい。
それでも私はCHYを起こしてドライブに出かけた。

カレンダーとか時計が進んだだけ。
それでも、それは決して戻ることのない不可逆ベクトル。すごろくとは違う。

確実に一歩進んだ。将来に向かって進んだ。

この先、復職して安定した生活を取り戻したら貯金して、CHYが見つけた指輪を買って結婚して、年をとって死ぬ。

死後のことはわからないからこそ、誰でも妄想を持つ。
地上での死んだ時間軸が近いほうが見つけやすいなら、先にCHYを探すかもしれない。
関係ないなら、先にしみっちを探すだろう。
しみっちを探している途中でCHYと遭遇するかもしれない。
CHYが見つけてくれるかもしれない。
しみっちが先にCHYを見つけていて、二人で一緒にいるかもしれない。
CHYがしみっちを探し当てているかも知れない。その場合はおそらく、CHYはしみっちの居場所を把握するだけで声をかけないだろうwww

私の想定では、地上を離れるのは私が最後だ。

人生の途中で、引っ越しもしたい。
だから、きっと荷物の整理もするんだろう。いつかできるようになるんだろう。

無力感を知って落ち込んでいたけれど、ただカレンダー上の日付が変わっただけで、私は将来に希望を持つことができた。

なにかをしなくても、ただ時間をやり過ごすだけでも、実績と感じて自信につながった。
自信を通り越して無謀にならないように。

命日をすぎて、私はほぼゲーム垢となっているツイッターで#死別に参加することに決めた。
アカウントを分けたほうがいいのかもしれないとも思ったけれど、そうしなかった。

日常的に死別に関わる。発狂しそうだから目をそらしてきたけれど、今の私にはそれができるようになったし、必要だと感じる。

涙を共有したり、ご新規さん(www)のツイートを見て自分のときのことを思い出したり、僭越ながらアドバイスしてみたり。

私達はもう、普通には戻れない。

それを改めて認識して、死別とともに生きていくことを覚悟した。
無力なら、できることを増やしていこう。

「後悔」というのとも違う気がするんだが、それ以外の適当な言葉が思いつかない。
やはり、後悔みたいなものはある。

そういうのを、ひとつひとつ、きちんと見つめ直していこうと思う。
そして、CHYは、そんな私に贈られたGIFTだとつくづく思う。
しみっちといたときの私にできなかったことを、今、やり直させてくれる。

しみっちが見ていた私を、CHYを見る私の目で想像することができる。
死後、また一緒になったときにはお互い、もっと成長しているだろう。