きいたんのしみっち

2015年1月30日金曜日、8年間の心臓病から解放された夫・しみっち。
しみっちと出会ってからが私の第二の人生。踏み出すこれからが第三の人生になります。

私がたどったグリーフ

もうすぐ半年。これまでを少し振り返ってみようと思います。

ちょっとずつ、しかも時系列でなく、書けるところから書いていくつもりです。
なので、こんなものを作ってみました。

タームチャート
年月ではなく、私の中でのランドマーク的ポイントで期間をわけました。

新しく作ったカテゴリの説明になりますので、実際の記事はあとで・・・

(いや、べつになんでも後でにするタイプじゃないよ、ちょっとそういうところあるけど)

なんか短いから、ムニュでも載せておこう。

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病院の対応は素晴らしかった

タームチャートa
インパクト当日の様子は「フラッシュバック」でも書いた。ん~、他の記事でもちょこっと朝の様子を書いた気がするが、思い出せないので(u_u*)おいといて・・・

入院当日、私が起きるともう、しみっちの出発の準備はできていた。
そして、しみっちは眼鏡をメガネケースに入れてダイニングテーブルにゆっくりおいた。

嫌な予感がした。

「置いていくの?」
「うん。病院じゃ、使わないから。」

そっと、ゆっくり置いて、さらに手を上においた。

この時、しみっちは自分がICUに入ると思ったのだと思う。
そうすると貴重品を袋詰にされて私に渡される。そのときメガネケースがなくて、いつも財布などと一緒にさりげなく眼鏡が入っていて、持って帰る時にちょっと気になってた。
しみっちはそれを考えたのだろう。

でも、嫌な予感はした。

家を出る時、「ムニュに挨拶しないの」といつも声をかけていたけれど、言えなかった。
前に二人で見たテレビで、入院して帰ってこなかったご主人のことを思い出し、その季節になると犬がおかしくなる、というふしぎ話を見たことがあった。それで、入院に出かけるときはちゃんと挨拶して行きなさいよ、といつも言っていたけれど、この日は言えなかった。

嫌な予感が二人にあったんだ。

いつもどおり、戸口で手を上げるだけで、「いってきます」と出て行った。
無事、しみっちは病院に到着し、遅れて私が入院の荷物を持って出た。一緒にいくのは嫌がっていた。相当調子が悪く、休み休み行く姿を見られたくないのだろう。
一度、電車に座ったら動けなくて山手線を一周近くしたこともあった。そういう自分に私を付きあわせたくないのだ。頑固者なのだ。

荷物を持って病院に付いた時は元気そうだった。
私がいるとナースにきつくあたる。以前私がナースと仲良くしているのを怒ったからだ。

しみっちの入院する病院はうちから2時間ちょっとかかる。私は頻繁にはお見舞いに行かない。そのかわり、しきりにLINEをする。しみっちもLINEがお気に入りだった。
電話は嫌がった。きっと、余計に寂しくなるからだろう。

経過は良かった。

それで、木曜の夜に、週末から始まる「アルペジオ」の映画を見たいから、お見舞いは日曜でいい?ということになった。
長い入院の時は、一週間に一度しかお見舞いに行かない、ということなんて、ザラにあったから、しみっちも来てもらえるだけで大喜び。
落ち着いてからしみっちのスマホを開いたら、私がその夜に見ていた劇場の予約状況のページを見たままになっていた。同じページを見ながらLINEしていたのだ。

その翌日の朝、起きたらしみっちからの、おはようLINEが来ていたので返した。7:35。
トイレに行った時しみっちが寝室にいた。「もどりなさい!」と私は言った。そして、プクリポの男女ペアのぬいぐるみをベッドにおいて、ここに戻れないようにした。

その後しばらくして病院から意識がないと電話があった。

私はその可能性をほとんど疑わないほどだった。なぜなら、前日のLINEでよくなっている、と言っていたし、意識がなくなる理由が他にないからだ。
そして、電話口のナースは雪が降っているので気をつけてと言う。急がなくていいということだ。
「タッチ」で、でっかい人がみなみを呼ぶのを急がなくていいんだな、と言ったシーンを思い出していた。

2,3年前に重篤の電話をもらった時とは大違いだった。私は落ち着いていた。
なぜなら、もうしみっちはそのとき、私のところにいたからだ。
ゆっくり行っていいよ。

むしろ、ゆっくり来て欲しかったのだろう。医師たちが必死に処置している姿とかを見せたくなかったのだろう。
私はほとんど確信していたにも関わらず、ひどく落ち着いていた。

それは、グリーフステップの否認とかではなく、その時すでに受け入れていた。その後も、否認の段階は本当の意味ではなかったかもしれない。

もし、病院が近くて、すぐに私が着いていたら、パニック状態の病室を目にすることになっただろう。そうしたら、今私は、もっとひどいうつ状態になっているだろう。すでに地上にはいなかったかもしれない。

病院につくと、担当の医師が今何か他の作業中なのでちょっと待っていてくれという。
ICUなら3Fだ。通されたのは5Fの普通の休憩コーナー。
いろいろなナースが代わる代わるやってきて、「雪はだいじょうぶでしたか」「寒くありませんでしたか」などと、声をかけていく。
私は、なんだ、やっぱりなんでもないんだ、と思って笑顔になったところへ、先生が登場した。

そうして、以前の記事で書いたシーンのように非常にゆっくりと丁寧に、ワードにひとつひとつ気をつけながら話してくれる。

電気ショック機能付きのペースメーカーが初動したのは7:35だった。

私のLINEは未開封だった。
しみっちはスマホを使う時、かならず付属のタッチペンを使う。手荒れがひどくて、スマホが反応しないからだ。タッチペンはスマホにささっていなかった(しまわれた状態ではない)。使っていたのだ。
私のLINEを開こうとしたのだろう。

私がそのタイミングでおはメールを返さなかったら?
そうしたら、ショック状態は起きなかったの?
ペースメーカーは5回電気ショックを流している。あまりやると心臓が焦げるので、すぐに医師が止めて心臓マッサージを30分から1時間くらいしている。
M君は相当くやしかっただろう。
そんなはずのない状態の患者が、ペースメーカーの作動も正常だったのに、蘇生できなかったのだ。

どんな状態であれ、私が部屋に入ると、しみっちがベッドに横になっている。血も拭き取られて、きれいにしてあって、パジャマに着替えさせてくれてある。そしてふたりきりにしてくれた。

私は一度怒鳴って怒ったが、そのあとは淡々としていた。
落ち着いていた。
今後のことなどは考えていなかった。
ただ、そうか。そうか。そうか。そうか。
と、ゆっくり何度も心でつぶやく感じだった。

1月に入ってからの苦しげなしみっち、顔も体の色も変わって、体中がおかしくて、もう、限界だったんだ。
そうか。そうか。
お前は終わったか。
私はこの地上に残るよ。

私は哲学的思考で淡々としみっちと会話した。

手を握れば安心する。
なでなでもしてもらった。

この時の病院側の対応がとても上手であったことが、その後の私のグリーフの方向を決めたと思う。
そして、検死のためとサイジョウの都合で、一週間も凍ったしみっちが地上にいてくれたことも、同様に私に安心感を持たせる一週間としてくれたことが、非常にグリーフのベクトルへ影響を与えている。

父が病院についた時、抱きついて泣いたけれど、朝から何も食べてなかったので、ちょっとウィダー飲むからと言って、霊安室の外でウィダー飲んだ。
涙が止まらない、ということはなかったが、泣きたければ我慢せずに泣いた。
会話もできたし、少し笑うこともできた。

だって、しみっち、ワーファリンで血が止まらない状態だったのに、鼻の穴がガビガビだと言っていたから、倒れた時にちょっとぶつけたらしく、鼻血が止まらないのだもの。医師が薬を入れても止まらない。
これはもう、ぜんぶ出るまで止まりませんね・・・と。
笑っちゃうじゃん。
こんな緊迫したところで鼻血とまらないなんてアクシデント!
そのせいで家に連れて帰れなかった。
絶対連れて帰りたい、と言ったが、検死の方向に話も進み、ますます家に帰れなくなった。
それも私のグリーフのレベルを下げたと思う。
入院に出かけたままのベッド。
抜け殻をよこたわらせたベッドではなく、朝起きて布団をめくったままのベッド。
時々私はそのベッドでゴロゴロしてみる。だから、布団の位置とか変わってるけど、それでいい。

この鼻血の一件で、本当に私は感情を失わずに済んだのだと思う。
もしこれがなかったら、悲しみだけに脳を支配されてしまい、感情をなくしただろう。

しみっちったら、お茶目だなーって思った。

葬儀屋との打ち合わせやらなにやらで家に戻ったのは遅かった。
飛び降りたい衝動はムニュのことが頭をよぎってやめた。しみっちが叫んだのだろう。

しかし、家にもどると、ムニュが全然、かわいくない。

暫くの間、そうだった。私は母や友人に、しみっちにだけ見せるかわいい表情があったせいかな、と言っていたが、今は違うと知っている。
あれは、あのとき、グリーフの最初の段階として、愛情を失っていたのだ。

グリーフのレベルや方向は人によって様々だ。どんな病気だったのか、どれくらいの期間どの程度の看病をしたのか、そして、インパクトデイにどんな状況だったのか。

今回書いた記事が私のインパクトデイの様子だ。
私が前向きでいられる時間が多いのは、この日の状況が、このようであったからであると考えている。

もちろん、二人に予感があり、1月中にはもしものときのことを話してあったこと、離婚の話が途中で出ていたけれど、二度と考えないと決めたことを伝えることができていたことも影響している。
もしものときには、絶対に再婚してやるからな、と言った。
しみっちは「ま、がんばって」と片手をあげた。

1月の暮らし方も私のグリーフへの影響は大きいと思うが、まさしくこのインパクトデイの有り様が私のグリーフの質量を決めたと思う。


このカテゴリは「私がたどったグリーフ」なので、私のことだけ書けばいいのだが、一つ書き足したいことがある。
なんかの本で読んだのだか、「医師からの説明がなかった」とか、「病院の対応が悪かった」と後々何度も怒りを再燃させる人も多いそうだ。それは、パニック状態の病室を見た人に多い。すでに相当自分が混乱しているために、実際には説明されていても理解できないし、なにもかもがわけのわからないことになってしまって、病院のせいにしてしまっているのかもしれない。

インパクトデイのことを詳細に思い出すことはグリーフワークにとって効果があると私は思っている。
だけれどそれは、無理にやることは危険で、出来るようになった時に、ちょっとメモをとったり、ブログに書いたり人に話したりすればいい。
何かを思い出した時、それは貴重な情報なので、どんなつまらないことでも、記録した方がいい。自分の中に閉じ込めてしまうのはもったいない。それが貴重な大切な情報だということを知ってほしい。

たとえば、ティッシュを差し出されたことを悪く思う人もいる。でもただの親切だったかもしれない。それはその時の渡し方を細かく思い出せれば、判断が変わるかもしれない。
私の場合は、ちりしありませんか、と言ったら2,3人のナースが部屋を飛び出してボックスを持ってきてくれた。
あ、いや、そこまで必死に・・・と心のなかでちょっとふいた。
そういう時に、ティッシュもよこさないで!なんて風に私は思わないタチだし、そうであることができたのは、パニック状態の病室を見ていないからだと思う。

だから、しみっちは、地上のバスを降りただけ、というイメージに至ったのだろう。

なげぇな・・・・最期まで読んでくれた人いたら、まったく素晴らしいぞ。その集中力!
なんかこう、うまく切り分けて記事るべきだったけど、切り分ける場所がうまくつくれなくってふにゃにゃにゃ。
(いいわけも噛むほど動揺している)

私がそのタイミングでおはメールを返さなかったら?

タームチャートa
前回の記事で、私が送ったLINEと同時刻にしみっちのショック状態が起きている。
「私がそのタイミングでおはメールを返さなかったら?」

そのことに関して、私は不思議なほど後悔していない。

なぜなら、その瞬間にしみっちの頭にあったのは、今日の天気でもトイレの事でも実母のことでも他の何でもなく、私のことだけだったからだ。
なんて誇らしいことだろう。私はそう思った。

きっと、その時私がLINEを出していなくても、おそかれはやかれ状態だったはずだ。
それが、まさにそのタイミングで。
「あ、きいたん、やっと起きたな」と思った瞬間だったんだ。
こんなうれしいことはないじゃないか。
しみっちを誰にも渡したくなくて結婚した。
しみっちは最後まで私と暮らしていた。
しみっちが最後に脳に描いたのは起きた私の姿だ。

素敵なラストシーンじゃないか。羨ましいくらいだよ。

さっきの記事を読み返して、書き忘れてたので連投になりましたヽ(´_ゝ`)ノ

初日

インパクトデイの初日の話の続き。

タームチャートa
最初、先生が義母に電話してくれた時、「来ないとおっしゃっています」と言われた。
「は?」と私が言うと、「一人では来れないと・・・」

一人でしみっちに会いに行ったりしてたよね?動揺してこれないってことなの?それとも、意味がわかってないの?
私は驚愕した。

私の様子を察して先生が義母との電話での話を続け、「妹さんの車で来るそうです。」ということになった。
「それまで待ちますか」と聞かれたので、「いいえ、早く会いたいです」と言って、516号室に入った。

その後、鼻血騒動が始まり、私は当時連絡を絶っていた実家に連絡をとった。このあたりの時間的順序はもう記憶が混濁している。
家に電話したがやはりでない。メールしてみると、急いで返信が来た。
そして、「3時ころにはパパが着ける」と言われた。

まだ午前11時30くらい。
いや、その時にはもっとたっていたはずか。

それからしばらくして、ナースがやってきて、義母が妹さんの車で3時ころには着くと行っていますと言われたのが、2時前。
妹の拙い運転でどうやって1時間で来るつもりなのか不思議だったが、とりあえず、はい、と答えた。

その間、ペースメーカーを除去する手術をしたり、鼻血の処置をしたりと、まるでいつも通りの病室みたいだった。

もうしわけないけれど、霊安室に移させて欲しいと言われた。
当然だ。
それを、申し訳無さそうに言うのが、なんて素敵な病院なんだろうと思った。
ナースも代わる代わる私のところへやって来て、昨夜の様子や、自分が会話したことのある内容などを話してくれた。

移動するにあたって、荷物を整理して持って行かなくてはならないのだが、それもナースがやってくれると自ら申し出てくれた。
私はしみっちの荷物を詰めるなんてとても出来る状態ではなかったから、本当に助かった。

霊安室では葬儀屋の人と一緒だった。彼は一生懸命鼻血の処理をしていた。どんどんでてくるから、ワタを奥のほうまで詰めて、それでも3分もしないで溢れてくる。
なんかこう、どっかに穴あけて血を抜いちゃえばいいんじゃないの、とか思うくらい大変な作業だ。

父が来て、少し遅れて妹と義母が来たと報告があった。5Fの休憩室に待ってもらっていますと言われたので、父と迎えに行った。

義妹は男連れだった。なるほど、それなら1時間程度ですっ飛ばしてくることも可能だろう。
あとで見たら、BMだった。相当とばしたんだろうなぁ・・・

5Fから地下に降りて、3人を連れて行った。
あまり衝撃を受けた様子はなく、珍しいものを見るような感じだった。

面子が揃ったので、先生から説明があると言われ、また5Fにもどった。

先生は、しみっちが立川に転院してからの経緯を丁寧に説明してくれた。ペースメーカーを入れなくてはならなかった理由、ペースメーカーは順調なのに、どうしても心臓自体の様子がおかしかったこと、他に影響が出ていたことなど。
先生の説明の途中で、義妹のなかでも一番上の姉から義妹に電話が入った。
先生は説明を中断し、義妹は廊下に出て話し始めた。とても兄を失った直後とは思えないテンションの長電話。
5分は電話していたんじゃないだろうか。
義妹の連れの方が心配し始めたくらいだ。

義妹が戻り、説明が続き、不明なところはありませんか、と言われ、私の父が「もっと早くに見つけていたら、とか、そういうのはないのですか」と聞いた。
父とはうまくいっておらず、しみっちの病気の経緯など全然知らない。2年前だか3年前だかに重篤になった時も連絡しなかったくらいだ。

しみっちは無呼吸症候群で定期的に医者に通っており、そこで最初の心房細動を発見している。普通の人より発見は早かったくらいだ。そういう話をできる両親ではなかった。

「発見は早かったし、当初は別の病院でしたので詳細なカルテが手元にありませんが、担当医はずっとそのころからうちのTですので、処置は問題なかったと思います。それと、発見が多少遅れていたとしても、結果はかわらなかったと考えられます」というようなことを説明した。
父は病院の落ち度を探ってやろうという感じで嫌な態度だったが、若いM君は丁寧に対応していた。
この2,3年で、随分経験値をあげたなぁ。
父はさらに、「検死をして、(病院のミスが)なにか見つかったりしませんか」などと失礼なことを言い出した。「遺族の方が希望される場合は勿論、詳細に調べさせていただきます。今回の件は、進行がとても早く、また、若い年齢での心房細動と●●(覚えてない)などの発病でしかも、何度焼いても治らないという病状でしたので、私達も知りたいです。」という回答だった。
私は、父をちょっと止めて、「検死をしたい、ということですか?」と尋ねた。「そうです。T(担当医)の希望はそうです。」と答えがあったので、「では、お願いします。」と私は答えた。

しみっちになにかあったら、臓器提供とか、私はしたいよ、と話した時、「向こうでなくって困ったらやだからやだ。それに、しみっちのはもう、どれも役に立たないよ」、と話したことがあった。ごめんよしみっち、と心で思いながら検死をお願いしたのは、データだけでも地上に残したかったからだ。そして、検死をすることで、葬儀を遅らせることができるからだった。それに、この後の動揺の患者さんの役に立ちたかった。

その後、霊安室で医師やナースがお焼香し、私に挨拶し、冷凍庫に移された。

私達は葬儀屋へ車を連ねて移動した。

葬儀屋との会話では自然と全額私が支払う方向になっていたので、まぁ、そういうものかな、と思った。
義妹はまた姉と電話したりして、落ち着きがなかった。
義実家の方は、嬉しそうにこそしていなかったが、私の父に比べるとテンションは高かった。

その日は父の車で私の家へ向かった。
私の家では母が待っていた。
母のテンションもなにかわざとらしくおかしい。葬儀屋へ向かう車の中で母から電話があった時に、母が泣いていると葬儀屋での打ち合わせが出来る心の状態になれなくなってしまうから出ないと断った。その件で、母は泣いてはいけないと思ったらしい。

二人の様子がおかしいので、帰ってもらった。

夜中の3時に電話した。

そうしたら、振り絞るような声で「頑張れ」と何度も言われた。
私は学校では成績的には優等生だったので、頑張れとか言われることはまずなかった。
初めて言われたと思う。

そうか、今が頑張りどころなのか。と思った。

そして、しみっちが、私の親友のTNSTに電話してみなよと囁いた。
こんな時間に?と思った。それに、しみっちの病状が悪くなってからは、友人とは誰とも連絡をとっていない。
でも、ダメ元でかけてみようよ、と言うので電話すると、すぐに出た。こんな時間に?
彼女は「なんか、さっき、ふと目が覚めたんだよー」と言った。
今から支度して、始発で行くから、と言ってくれた。
しみっちがTNSTを起こして、そして私に電話させたのだろうと思った。

TNSTは働いているけれど、インパクトデイはちょうど金曜日。細かいことは覚えていないが、母と交代で葬儀までの7日間、泊まってくれた。母より、TNSTの方が沢山一緒にいてくれた。

私は普段通りの声が出せず、ささやくような大きさで、ボソボソといろいろはなした。しみっちのことだけじゃなくて、結婚についてとか、私達がしみっちの躁うつがひどくても離婚しなかったこととか、私の中学時代の話までした。

今思うと、TNSTは私達の結婚後に流産して離婚している。そのことを私が知ったのは、その件の半年後だった。私はTNSTに頼られていないのだろうか・・・
でも、こんな時、呼べば来てくれる。そして、TNSTにとっては聞きたくなかったかもしれない話もだまって、うんうんと聞いていてくれた。

そういえば、TNSTは最初に来るときウィダーを買ってきた。なんにも食べられないって言ってたから。と。一番嬉しかった。
食べられないけど、お腹はすいていたのだ。

こうして、眠れないまま、翌日が始まった。


二日後くらい

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しみっちのは5人兄弟の長男だった。
すぐ下の妹は家族でアジアのとある国に住んでいる。

二日後くらいだったと思う。まだしみっちが立川の病院にいる時だ。多分、検死を終えて葬儀屋へ移送するタイミングだったかと思う。

検死にあたっては、着せてくれてあったパジャマをやはり処分するとかで、着せてあげたい服を持ってきてくださいと言われていた。私は前日に、しみっちが病院へ行く時に着ていった服を選んで、洗濯した。

中に着せるTシャツは、これがいい、と思うものがあったのだが、どうしても見つからず、モンハンのTシャツにした。私が選んだものが可愛らしすぎて嫌だったのだろう。あんなに探しても見つからなかったのに、そのあとでタンスを開けたらすぐに出てきたから、今はくまさんに着せてある。

しみっちに選んだ服のポケットに、ムニュのヒゲを一つ入れた。

一番上の義妹一家とは病院で待ち合わせ、5Fの休憩コーナーで準備の出来るのを待った。
そのときに、義妹としてはすぐにアジアに帰らなくてはならないので、あれこれ心配があったようで、お墓の話だの葬儀の話だのをしようとする。

その休憩コーナーは私がお見舞いに行った時にいっしょに座って話したりしたことがある場所だ。
そこは、生きようとしている人々が集まる場所なんだ。
だから、ここでそういう話はやめて、と言ったが、義妹はきょとんとしていた。

準備が整ったので、霊安室ヘどうぞと言われて向かった。緊張感があまりなかった。
ただひとつ、嬉しかったのは、義妹がちゃんと娘(しみっちと私の姪)を連れてきてくれたことだ。

しみっちが入院する少し前に、姪が生まれた時に送られてきた体重分の米袋を見つけて、「捨てていい?」といったら、「とっておいて」としみっちが愛おしそうに言ったのだ。中の米は普通に食べたが、生まれたばかりの姪の写真がプリントされている米袋は捨てられなかったのだろう。その時、私も子どもが欲しかったとやはり思った。

その後、病院で別れて私と父で葬儀屋へ一緒に移動し、葬儀の手順など細かい打ち合わせをした。



四日後くらい


タームチャートab
すでに葬儀屋から、斎場の冷凍室に移動されているしみっちに、母がようやく会いたいと言った。

母は心も体も弱く、それまで病院へ行くことはできないでいた。斎場ならば、それほど遠くないし、体調もよかったようだ。

電話で予約をして、電車で母と一緒に向かった。もらってあった地図は古くて、目安のショップはあてにならず、信号機の名前で検討をつけて歩いて行った。
その時、角のコンビニに入る黒いパンツスーツの女性を見かけた。斎場のスタッフかなと思った。

斎場について、予約した時間を過ぎてもなかなか順番が来ない。
私と母はホールの椅子に座って待っていた。
するとさきほどの黒いパンツスーツの女性が戻って来てタバコを持っていた。
スタッフではなく、遺族だったようだ。
この件があって、このあとで丸井へ行って喪服を買う際に私はパンツスーツをやめて、スカートのものを選んだのだ。普段からスカートははかないのでパンツスーツで、と思っていたが、お店の人に、それだとスタッフと間違われます、と言われ、そういえばさっき・・・という成り行きである。

順番が来て名前が呼ばれ、私と母は寒い部屋に入った。しみっちはもう「用意」されていた。
それまでみてきたなかで、一番凍っていた。

それでも私はしみっちの頬をさわりながら、「TNSTが来てくれているんだよ、泊まってくれるようのソファベッドに座ったまま私がねむっちゃったから、床で寝てたよ」とか、「TNSTには葬儀にはでてもらわないね。顔を見られるのが嫌だって言ってたでしょ。」としきりに話しかけた。ほんの2日程度離れていただけで、話すことはたくさんあった。

あぁ、こうして、私達は待たされることになったのかと、気がついて、そろそろ行こうかと母を促した。

帰りに丸井へ寄り、喪服やなんとかなど、必要な物をあれこれ準備した。

家に帰ってムニュを抱いたら、右手にびりっと電気が走ったような痛みがした。
凍傷になりかかっていた。


ギブ


半年までの間に、葬儀までの一週間のことを詳細に記事っておきたいと思っていたんだが、鬱になるし現実逃避するし、まぁいろいろ怠惰で・・・

今日頑張って連投してみたが、ギブ。

あとは戒名頂いた日のことと葬儀の日のことが目標だった記事。一歩及ばず(二歩ですな・・・)

熱中症に気をつけてたら、久しぶりに冷房病になりかけました。
上着はおってベランダに出てあったまったら、ずいぶん良くなりましたが、微熱と頭痛が取れない(≧▽≦)
あっはっはっは。わらうしかねー。


戒名を頂いた日

タームチャートab
確か、葬儀の前日位だったと思う。
しみっちの実家の兄弟4人と義母と私とでお寺を訪れた。

約束の時間より少し早く着いたので、ぼんやりとイミフの石像を眺めながら、
「なぁ、おまえ、お前が60億の人間を全部殺して欲しいって言うならそうしてやるからさ、しみっちをかえしてくれよ」と声に出して話しかけていた。

時間がきて、住職に会うと真っ先に彼が言ったのは、「どんなことをしても、戻ってはきませんから。そこをこれからどうやって行くのかが、大事ですよ。」という言葉だった。

え、さっきの石像の中に盗聴マイクでも入ってたの?と焦った。

でも、その日の私は本気でそう考えていた。そして、そんなことをしても、しみっちが戻らないとしても、そうしたかった。生きとし生けるものすべてをなぎ払い焼きつくしたかった。憎しみとかではなく、それが自然ななりゆきではないのか、と思っていた。

写真があれば持参してください、と言われていたので、大阪の水族館で撮った写真を持っていった。

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随分前の写真だが、プリントアウトしてある中では全体も映っているし、これがいいかなと思った。

写真を見た住職さんは、「あれぇ!随分とかっぷくがいいんだねー」と驚いて、声を大きくした。
心臓でってきいていたから、もっと華奢なんだと思っていましたよ。

最初に義母から住職さんに連絡が来た時には年齢を聞いて、自死だと思ったらしい。そのあと心臓病で、ときいたそうなので、よほどスリムな人を想定していたのだろう。

写真をみて、「あんたを、守るように寄り添ってるじゃァないか。いい人だったんだねぇ」と言われました。
うん、まぁ、このポーズはカメラマンの要求なんだが、まぁいいか。

「はい。」

この時の私はまだ、あまり口が聞けなかった。

この頃は涙がとまらず、ハンカチではなくタオルを持ち歩いていた。「握っていた」の方がピッタリか。
そして、このあたりから気がついたのだが、タオルはミニタオルにこだわらず、ふんわり柔らかいものの方が目が腫れにくい!ということで、ちょっと大きめのタオルを使っていたと思う。

私の好物のモナカが出されたが、とても食べられる気持ちではなかった。
しみっちと一緒に来たことのあるお寺。しみっちのお義父さんが眠っているお墓。
そんな場所で、なにも喉を通るわけがない。

住職さんとは、しみっちがどんな人だったのかをみんなで話し合った。
話し合う、というより、ひとりずつ発表していく感じかな。

そうしたら、住職さんが、「あんたに一生懸命ご飯作ってくれてたのに、そのあんたが、なんにも食べれなくってどうすんの」と私を叱った。

はっとした。

私はしみっちに育まれてきたのだ。しみっちがずっとずっとずっとずっと。付き合い始めた頃からずっと。
その私が、今何も食べていない。しみっちは、そのことをすごく悲しむだろう。自分がいなくなっちゃいけなかったんだって苦しんでしまうだろう。

モナカはやはり喉を通らなかったが、その日からは一日一食は食べられるようになった。

みんなが発表するしみっちの印象は、私の知っているしみっちと少し違った。
弟くんは、兄は勉強もできて、なんでもできて、尊敬していましたと述べた。
そのあと、例の金くれくれ騒動の義妹が、「きいたんに会ってから思いやりのある人に変わったと思います」と言った。

そうだったのか。私のお陰でしみっちはあんなに優しい人になったのか!すごく嬉しい言葉だった。とともに、後に金くれくれ騒動に至った経緯もこの言葉から納得がいく。
しみっちの兄妹がなぜ?と、最初は思ったのだが、私に会う前のしみっちだったら、そんなもんだったのかもしれない。

しみっちは私を育ててくれた。私はそれまでの切れやすいヤクザみたいな人間から、もっと平穏で優しく、甘えん坊な人間に成長した。しみっちも、私といることで、おもいやりを持ついい男になったのだ。こんなに誇らしいことはない。
義妹のコメントはとてもじーーーんとくる言葉だった。

この日も、どの日も私はずっとピンクの目立つバッグを使っていた。住職さんが、「いい色だね、それ」と気がついて言った。こんな場にふさわしくないと思っていたらしい義母はなにかごまかすようなことを言い出したが、「しみっちの好きな色だったんです。入退院を繰り返していた時期に、ちょっとでも明るい色のほうがいいと思って買いました。」と私が言うと、義母は私を手で遮って、「きいたんが好きな色でしょ」と否定した。自分の息子がピンクが好きだなんて思いたくなかったのだろうか。

ちなみにしみっちの部屋着もピンクのズボンでした。これ↓

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この場で、アジア在住の上の義妹が、墓の管理をどうするか決めたいと言い出した。
「きいたんはまだ若いから、これからの負担にならないように、お墓の管理は弟に任せたい」と言った。

2つの意味合いに取れる。
言葉通りの場合と、それは建前で、私になどお墓を任せたくないという意味合いと。

私は、そのとき、仮の人格でどうにか生きていたようなものだったので、言葉通りに受け取った。
「ありがとう、●●ちゃん、私、そこまで深く考えてなかったよ」
と号泣して言ったら、住職さんが「いいお嫁さんだねぇ。アンタは本当にいいのかい、お墓はお義父さんと一緒で。」と言った。このセリフで、私は先ほどの2つ目の意味合いを悟った。

でも、今からお墓を用意して、なんてお金はない。時間もない。アテもない。
いずれ、もめたら、その時までには金持ちになっておいて、金で解決できるだろう、と考えた。

「はい。勿論です。お義父さんと一緒のほうがいいと思ってます。」と答えた。

義母はこういう席の場合、あまったお菓子などは全部まとめて自分の袋に入れる人だ。
でも、私にも少しワケてくれた。

戒名は、とてもいいものを頂いたと思う。

そして、私に会う前までのしみっちが、家族からどう見られていたのかを知ることができて、とても有意義だった。

鬱に落ちた日

葬儀の日のことはまだ書けませんね。これは難しい。
なので、ちょっとすっ飛ばして2月の下旬の話になります。

タームチャートbc
葬儀の後も、親友のTKNSTは週末来てくれていた。でも、私の悲しい話を聞くのが辛かったからか、私の方もネタが尽きてきたからか、ドラマ1クール分のDVDを持参して来るようになった。
STとか、クロコーチとか。
どれもしみっちがまだ居た頃にやっていたけれど、見ていなかったドラマ。
途中のCMなんかは悲しくてすっ飛ばして。クロコーチなんて、長瀬くんのしゃべり方がとろい(?)ので、1.3倍速で見ましたよw

そんな風にドラマを一気見すると、まるでそれだけ時間が経ったような感覚にもなり、あれから随分経ったんだなぁとか勘違いするようになった。
死別カテを知り、いろいろなブログを見ていると、「髪が切れない」というのを何度か目にした。

私としみっちはすでに引きこもり状態だったから私の髪は腰まで、とは言わないけれど相当長かった。伸びっぱなしで束ねてた。

よし。
時間がたてばそれだけ切れなくなるらしい。
そう思って私はしみっちがいつも使っていた近所のQBハウスへ行った。

ここでしみっちもカットしてもらってたのかぁ。この人だったのかな、それとも、あっちの席の人かな。他にもいるのかな。

「どれくらいきりますか」
「けんこうこつくらいまで」
「え、すごく短くなりますよ」
「(短くしに来たんだよ)ええ、だいじょうぶです」
彼の指先から、うん、確かに伸びきって傷んでるからきっちゃえ・・・という意志が伝わってくるw

美容院とは違ってすばらしい素早さ。途中で待ったりすることもないし、ムダにシャンプーしたりしないでいいし、なんて便利なの!

短くさっぱりした髪をまとめて(やっぱりまとめる)家に帰ったら、涙が止まらなくなった。
その日から涙が止まらなくなった。心療内科で薬をもらうまでずーーーーっと。

これが私が鬱に落ちた瞬間だった。

髪を切ったからじゃない。
思い出を切り去ったわけじゃない。
でも、なんだか、あぁ、しみっちはいないのだと脳が確信したんだろうね。

やらねばならぬことは、その日までにいろいろやっていた。
眼の調子が悪くて眼科に行って検査したり、保険の手続きをすませたり、お仏壇を選んだり。
遅れていたムニュの予防注射にもタクシーで行った。
位牌の注文もした。ドラクエのオンライン更新もした。
パートの申し込みをして、面接も済み、3月からの勤務が決まっていた。

髪を切って、やらねば、と思っていたことが一旦全部済んだのだ。

ぷっつんとなんかが切れちゃったんだと思う。髪を切ったからじゃないよ。髪は切ったけど、やることやった感で
ちょっと気が抜けた瞬間に、違ったナニカも切れちゃって、鬱に落ちた。
しみっちはうっかりものだから、命日が30日。2月には30日がないことも要因の一つだった。

でも、ある意味タイミングが良かった。鬱に落ちた次の日曜にYさんがうちに来て、私の様子を見て心療内科を紹介してくれた。それが3月1日。パートが始まるのが4日。
私はその晩に心療内科の予約をとって、月曜に行った。ここでもらった薬で涙が止まったので、無事にパートを始めることができた。

生死だけを見つめて「神様は居ない」とよく人は言うけれど、神様はそういう存在じゃないと私は思っている。
幼稚園はプロテスタントだったので、神様は私の中にいると教わってきた。(中学はカソリックだったw)
こういう風に、運の良いスケジュール(?)で鬱に落ちて、心療内科を紹介してもらった成り行きなんかは、やはり神様だの妖精だののおかげだと私は思っている。
今はその「妖精だの」の中にしみっちも加わっているので、今まであたっていたロトも当たりそうな気配がないが、他に色々助けてくれているから、まぁいいか。

もともと助けてくれていた妖精としみっちの声とを聞き分けられるようになれば、またロトも当たるはず。
一番しょぼいやつだけど。あれって何等だったっけ。
インパクトのあと、一度だけしか買ってないや。あれはいつごろ買ったんだったかなぁ。しみっちが当たるぜ!って言ったような気がして買ったけど、しみっちの当たるはハズレだからなぁ。そりゃ外れるわ。


引き裂かれたTシャツ

引き裂かれたTシャツの写真が入ります。フラッシュバックなどの懸念のある方はご注意ください
閲覧注意
あのインパクトの日に、ナースからこちらはどうしますか、と透明な袋に入った衣類を見せられた。
すごく汚れていますので・・・とか、そんなことを言われたと思う。
倒れた時に着ていたものだ。

知っている人は知っていると思うので書かないが、おパンツは別の袋にいれておけーーーと2週間後くらいに開いた時に思った。まぁ、その心配があって2週間で開くことができたのでもあるけれど。

タームチャートbc
おパンツはなつかしい(?)においだなと思いながら処分したが、Tシャツはしみっちのベッドにおいてある。
Tシャツと部屋着のズボンを洗濯した時には、なんだかホッとしたのを覚えている。ズボンの方はにおいも汚れも洗った後には特になかったが、なんとなく別に袋に入れて置いてある。

この下に、Tシャツの写真いれます。フラッシュバックなどの懸念のある方はご注意ください。








up_IMG_0624
昨日、なんとなく思い立って、復元してみたら、ちゃんとTシャツの形になった。
今まで縦に切っただけだと思っていたが、違った。

up_IMG_0625
黒Tなのでわかりづらいけれど、十字に切ってある

しみっちのお気に入りのモンハンTシャツのうちの一つ。
もう一枚は最後の服として着せてあげたので、2枚ダメになったことになる。

しみっちの洋服の整理はまだできずにいるけど、モンハンTはあと何枚か残っているはずだろう・・・とは思う。

当日の医師の説明では、ペースメーカーの異常の発生警告が出たのですぐに病室へ行き、処置をしたが、心臓は動かなかった。あとでペースメーカーのログを調べた所、正常に作動していて、5回の電気ショックを流してあった。とのことだった。

その時の様子がうかがえる。

このTシャツを見ると、ああ、しみっちだぁって感じる。安心感がある。
涙もでるけど、このTシャツはやはり、ちゃんと持って帰ってきて、洗ってあげて良かったと思う。

入院前の洗濯物はまだ手がつけられない。洗濯カゴに入ったまま。
いつかそれも洗って干して、しまってあげるだろうけど、今はまだ私にとって、そのときじゃない。

でも、このTシャツを干した時のあの安堵感は忘れられない。
このTシャツを開く度に得られるなつかしさと安心感も大切だ。
洗濯カゴのものを洗ったら、それらをもっと得られるのだろうか?

でも、洗濯カゴに置き去りのしみっちの部屋着を見る度に、しみっちだぁ、と思ってやはりちょっと嬉しい。
だからまだ、洗わない。臭ってこないしw

汚れたものと一緒に袋詰にされていたまま、病院から帰ってきた時のしみっちの入院用旅行バッグに入れっぱなしだったから、これを取り出した時にはバッグの中が臭くなってた。

「すまねぇええええ」といいながら、部屋でバッグのにおいを飛ばしたっけ・・・しみっちの部屋でw



バカヤロウ

タームチャートa
以前の記事で「病院の対応は素晴らしかった」といのを書いている

今朝はちゃんと薬を飲んで、咳も落ち着いている。抗鬱剤が効くまで咳は止まらないw

落ちまくっていて、午前中もよろしくない

ちょっと昔の記事を読み返してみた

やっぱり書いてなかったことがある

涙涙で、病院の対応は素晴らしかったしか読んでないので、どこかで書いているかもしれないけれど、二人きりになった時、私はなんと言っていいか分からなくて、怒った。
フロア中に響くような大声で、ベッドのしみっちに怒鳴った

バカヤロウって

これからわたし、どうすんだよって

間に合わなくてごめんねとか、寂しかった?とかじゃなくて、とりあえずいつものように怒って怒鳴った

それが私達のいつもの関係



先日、ガス警報器の交換があった

5年前に取り替えたというので、4年間しみっちをキッチンの天井から見守ってくれていた警報器
(しみっち警報器じゃないよw)

22日には、しみっちからのクリスマスプレゼントがようやく届いた

26日には、しみっちが入院した

今はとにかく沈んでしまう

いらつく

薬全部飲んでも泣いてるなんてムカつく

何も手につかないなんて情けない

一年間、がんばった

一周忌はやらない

相続もかたづかない

マイナンバーの再配達処理もやりたくない

ゲンチャの名義変更もやりたくない

しみっちのことに繋がることはなにもかもやりたくない

そういう心にはらがたつ

泣いてどうなるものでもないのに

いっぱい食べてどんどん太るし甘いモノがとにかく欲しい

ストレスが大きい

乗りきれるのだろうか

次に来るあのビッグウェーブに上手く乗れるのだろうか

up_IMG_0279
二人で乗りたい

朝から暗くてすみませんねw

ここで一つギャグでも・・・


「・・・ってさ!」

(ハヤテのごとく!から)

去年の今頃は・・・

タームチャートab
去年の今頃は、TKNSTと二人でお骨を置く場所をせっせと用意していた

涙が止まらなくても、やらねばならぬことは、やっていた

今の方がだらけているなw
鬱じゃなくてただの怠慢だったらどうしようwww

お骨はしみっちのプラモデル作業台に置くことにして、その上にこんもりと積もったプラモデルとは関係のないあれやこれやを、とにかくダンボールに詰め込んだ
中身をじっくりと見る暇もないくらい、というか、見ている心の余裕がなかった

そして。。。

一番私を悩ませていたしみっちの作業台に取り付けられた電灯
作業台は壁にピタッとついているし、下にも荷物が一杯で、取り外せるハズがない。


・・・と、思ったら、TKNSTが引っこ抜いたヽ(´∀`)ノ

あの時はメガテンだったし、二人で大笑いしたよ


電灯は台座が机に固定されているだけで、電灯そのものはスポッと抜ける仕組みになっていた

なぜに引っ張ってみたんだい、TKNST?
未だに不思議。

その後しばらくして、しみっちママとお仏壇を買いに行き、途中から涙が止まらなくて店員さんも悲しそう

その場で、店員さんがいない時に相続の話をしたら「なにもいらない」と言ったのに・・・一年かけて争うことになるとは夢にも思ってなかったよ

49日には遺族は誰もうちへは寄らず、お仏壇を組み立てるのもTKNSTを呼んで手伝ってもらった

TKNSTがネットでいろいろ調べて、これはここじゃない?とか
結構適当に出来上がるw

up_IMG_2333
再掲。↑この方ですよ。TKNST。
まだこの先手をつけてませんので、再掲で。

こういう感じであはははははって笑ってくれるから、私も笑えた

去年の今頃が悲しすぎたから、今年の2月の最初の2週間を恐れていたのだけれど、こうして突入してみると、案外微笑ましい出来事もたくさんあったなと思える自分になっている。たくましくなっている。抗鬱剤を増やしているんだがそれはそれとして。

その後、お仏壇の支払いは私一人で行ったんだけど、その時は保険金が入ったのを確認するため通帳記入に寄ったので、道中、缶ジュースの自動販売機の横でしばらく泣いていたっけ
数字を見た途端に「ああああ、しみっち」って声を漏らしてた


この一年はしみっちがいないことの不安と悲しみでいっぱいだった
次の一年はしみっちがいないことの悲しみと自分の将来への希望で生きたい
悲しみはいつか薄れていくと思う
でも、しみっちを好きな気持ちは変わらず、永遠だと思う
しみっちは永遠に私のものだし、わたしの気持ちも永遠に変わらない
私たちは永遠を手に入れた、そんな風にさらっと思えるようになる日がくるといいな


泣けばいいってもんじゃねぇ

そう思いながら泣き続けた一年でしたね
男前に育ってきたので、泣くことに若干反発があったんでしょうねぇ。やんちゃですねぇ、いくつになってもwww


あぁ、今日も空が青い

一年と少し前、葬儀の日、朝出かけるのが嫌だった

決定的になるから

その愛すべき肉体が無くなってしまうから


それでも、出掛けた

まだ雪が残っているような日だったと思う

雪が降るという天気予報だった


父が車で迎えに来てくれた

車の車窓から、あぁ、今日も空が青いと思った


秋里和国さんのまんが「TOMOI」で、最後に彼が言った言葉

恋人をなくして、死に急ぐように戦地に医者として出向いて、新しい人生が見え始めた時の出来事だった

守ろうとした女の子とともに爆撃にあった

彼の意識はあったけれど、女の子が死んでしまったことを悟って、空を見上げて、あぁ、今日も空が青いと思って目を閉じる


私はまだ生きているね

死ぬときには、空を見上げて死にたい


自死が頭から離れなかった頃、私は飛び降りしか考えていなかった

仰向けで落ちるのは難しそうw


私は寿命を全うして、空の見える場所で死にたい

しみっちが、お父さんのお墓をたてた時に刻んだ文字は「空」


今なら、どうして「空」だったのか、分かるようなきがするんだよ


しみっちの納骨は迷わず、お父さんの眠るお墓に入れた

私が逝くまで一人で新しいお墓で待っててもらうのでは、しみっちには可哀想すぎると思ったから


しみっちが愛おしくてたまらない

夕食時にお酒飲んでから、涙が乾かない

パニックはおきていない

目がうるうるする程度

薬の量を減らすのは焦り過ぎだろうか

まだ迷っている

でも、たまには以前の私のように突っ走てみてもいいだろう


開胸手術の大きな傷跡、ペースメーカーを入れた時の傷跡、お風呂入る度に辛かったのではないだろうか

今日はそんなことに気がついた

もっと寄り添ってあげれば、もっと安心させてあげられただろうか

今は、一人で生活出来ている私を見て、安心してくれているだろうか


ほらね、やっぱり11時に寝るのは難しいんだ

10時半には寝支度を始めたのに、結局12時

やっぱり私は偶数人間

ビリヤードでは2番ボールで9ボールを落とすのが得意です

他は全然入らないんだけどね


眠剤が効いてきた

少しくらくらする

眠剤も少し量を減らしても大丈夫かもしれないね

あと1周間、サインバルタの減量実験を続けて、次は眠剤の減量実験かな


焦らず、慎重に取り組もう




安田レイ 「Tweedia」

昨年7月。
TKNSTと一緒に安田レイのTweediaを見に行った。川崎かなんかまで。
まだまだ頓服が必要な時期で、握手してもらった後、やっぱり急いで頓服を飲んだ。
握手してもらった時、「ありがとう」と言って、私は気持ちがこみ上げてきて、少し長い握手になった。レイをキョドらせたw

ひとりじゃないよ どんなときでも ここにいるからね

一人じゃない、しみっちがいつでもいてくれる、そう思って頑張ってきた。

でも、今はしみっちにこの言葉を伝えたい。

しみっちも、一人じゃないよ、きいたんがここにいるから。

この世界であなたと出会えたから

ありがとう となりにいてくれて

今朝はエビリファイを0.5錠にした。

飲んだ直後はテンション上がりまくりで、なにもないのに笑ったりしてた(不気味)

でも、急激に涙がポロポロ。

しみっちが寂しいんじゃないかって思えた。

きいたんがちゃんといるから。

しみっちのきいたんが、ちゃんとやってるから。ここでちゃんとやってるから。

きいたんの背後にしみっちが来るように、私もしみっちのところにいるから。

そんな風に思って泣いている。


私がPCデスクに来たら早速、ムニュにソファ取られたヽ(´∀`)ノ



些細な事で大泣きw

いや、ほんと、客観的に見れば些細な事なんだけれど、私的には大ダメージでした。

なんと・・・ハヤテのごとく49巻が近所の本屋で売ってませんでした。18日発売のものです。

すごく悲しい気分で帰宅して、最近関係が修復した母に電話して大泣きです。向こうもそりゃ対応に困りますw
「ハヤテのごとく」なんて知りませんし。

ハヤテくんは私が会社をやめたころにアニマックスで放送していました。毎日ハヤテくんを見て元気づけられました。私にとってはスーパーマンです。
その後も何度かアニメ化され、映画もありました。
新刊が出るときにはたいていしみっちに買ってきてもらっていました。
私が買いに行って、特装版が出ていることを知らないで通常版を買ってしまったときには、会社から帰宅したしみっちが本屋さんへ行って交換してきてくれました。

年々人気がなくなってきたようで、新刊が出ても平積みされなくなり、通常配置の棚にも置いてある冊数が減っていきました。
それがとうとう、新刊なのに置いていない・・・?
怖くて店員さんには聞けませんでした。そのままりんねくん(「境界のRINNE」)だけ買って帰りました。

そうなんです、一方のりんねくんは、ハヤテくんが人気だった頃にはこちらこそ平積みされていなかったのに、アニメ化に伴い平積みに。通常配置の棚にもたくさん並んでいました。

その扱いの差がとても悲しかった。

しみっちと私のハヤテくんが(別にしみっちはハヤテくんのことなんてなんとも思っていないw)、どんどん廃れていくなんて。

とにかく悲しかった。悲しい。今もまだ涙目。

それくらい私はハヤテくんが好きなんですよ。
でも、グッズとかは女の子キャラしか商品化されない。。。
あれ?ハヤテくんが主人公じゃないの?みたいな不思議な世界です。
それでもヒナギクが好きなので、ヒナちゃんのキャラクターソングCDとかも買ったりしていました。
もちろん、それだってしみっちにネットで買ってもらいました。なんとか版とかいろいろあるとパニクっちゃって自分で購入できなかったんです。

あーあー。ハヤテくーん。このまま打ち切りで終わっちゃったらまじショックだわ。
ハヤテくんは本当にかっこいいんだよ。



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眠れないでいたら悲しくなって眠れなくなった

あぁ困った。何時に眠剤を飲んだのかわからないけれど、眠れずにこんな時間。
そうするとどうしてもいろいろ考えてしまうよね。

最近、ふと突然「あぁ、しみっちはいないんだ」と思った。

少し認めることが出来たのはグリーフ的に前進。それまでは考えようとするだけで震えて涙が出て呼吸が乱れて頭真っ白でパニックになってた。今思うとあれは激しい拒絶反応だったんだね。

今はもう少し穏やかに泣くようになった。
でもその先はだめ。もう少し細かく考えたりその先(いない理由)を考えようとしたりするだけでパニクりそうになる。まだ無理。

そんなわけで涙が止まらなくなってアルプラゾラムとヘネシーを飲んだ。アルプラゾラムが20分位で効いてくるはず。それまで文章書いて気を紛らわせよう。

ムニュが居なければ死んでただろう。
でもそれは考えたくない。ムニュの寿命を短くしてしまう言霊になってしまうから。
ムニュとはずっと、少しでも長く一緒にいたい。

私は当初大きな目標をたてた。生きることが正しいと考えたからだ。生きるためには大きな目標が必要だった。それは何度でも幸せになること。
でもそれは途方もない旅に思える。
とても難しく困難な道。それでも、迷った時には初志貫徹、そこに考えを戻すことにしている。

そうやってなんとかやり過ごしてきたし、これからもどうにかしていく。

しみっちと映画を見に行って帰りにお好み焼き屋さんに行くのが嬉しかった。
F1観戦に行った時しみっちが一緒に行ってくれたのが嬉しかった。この機会しかないんだから、とお重箱セットのお弁当を買ってくれたのが嬉しかった。
仕事で終電逃して車で迎えに来てくれるのが嬉しかった。
御飯作ってくれる間待っているのが嬉しかった。
手をつなぐのが嬉しかった。

しみっちと一緒に暮らしたぬいぐるみたちは今はしまってある。代わりに沢山ぬいぐるみを買った。最近買う子たちは手が長い。しみっちのかわりに手をつなぎたいんだろうね。
しまってあるぬいぐるみたちは私が元気になるのを待ってくれている。本当はしみっちが帰るのを待っている。
ごめんね、しまったままで。ありがとう、待ってくれていて。笑顔で。
新しく来た子もありがとう。私を呼んでくれて。私といてくれて。手を繋いでくれて。

しみっちとお買い物に行くのが嬉しかった。近所のスーパーでしみっちが食材を買っている間にお菓子コーナーで吟味するのが嬉しかった。
あれこれ手に抱えてしみっちを探すのが嬉しかった。
しみっちと一緒にいるのが嬉しかった。

もう、そういう嬉しさはない。
別の人と新しく幸せを築いても、しみっちとの嬉しさはもうない。いたたまれない。

右耳がズンドコうるさい。でも明日には治るんじゃね?と思ってまだ医者には行ってない。
さすがに来週は行くべきだろうな。しみっちと一緒に行きたかった。

せめてしみっちを剥製にしてとっておきたかったな。
だって棺の中のしみっちと手をつなぐだけでも、凍ったしみっちの顔を見るだけでもあんなに安心できたんだもの。
しみっちに触れることができたらきっと、もう少し心が強く保てるはず。
葬儀屋さんも気が利かない。
「型取りしておきますか?」とか聞いてくれたらいいのに・・・
そんなサービス今の日本ではなさそうだけれどね。

泣いていると余計に耳のズンドコがうるさい。
やはりストレス性のものなのだろうか。

もともと左耳のほうが少し聞こえが悪かったので、どうしても右耳が左耳のように思えてくるんだけど、ものすごく関係ない話でしたね。
いや、耳鼻科に行って話すときに絶対これ間違いそうだなと思って。
最終手段で「こっち」を使うしかないかな。

「しみっちは死んだ」

そういう言葉を書けるようになるまで、まだまだ時間がかかりそう。

すごく嫌だ。今ちょっと書いてみただけでも、その文章を見るだけでも耐えられない。
だってあり得ないもの。そんなはずないもの。しみっちはスーパーマンだもの。そんなはずないもの。
なんど手術したって大丈夫そうな顔して帰ってきてたもの。
あんなにあちこち不具合が出て動けなくなってても、キッチンは自分でやるって言い張っていたもの。お風呂も入ってたもん。
ドラクエだってやってたもん。

もう一度鈴鹿に行きたかった。あの気が狂いそうなマシンの音を聞きたかった。でもパリ旅行の後は具合が良くなくて旅行なんて無理そうだった。
しかもアロンソが不調だったから、無理に行こうともしなかった。
でもサーキットに着いたときに、しみっちと一緒にサーキットに着いたときに初めて聞いたナマのF1マシンのものすごい爆音がものすごく嬉しかった。しみっちが一緒だっていうのがものすごく嬉しかった。
もう一度観戦に行きたかった。
あわよくばモナコにも行きたかったな。
バレンシアも。あ、ついでにシンガポールも。そうそう、フェラーリ遊園地のあるアブダビも。
2億あたったらF1サーカスに着いて回ろうねとか言ってたんだ。

あれからはもう、F1の情報もほとんど見てないよ。

私はメガネだから、この記事書くの大変なのよ。いちいちメガネを外して溜まった涙を取らないとメガネに水がどんどん溜まっていくのよ・・・鼻が高かったらそんなことないんだろうけど。

何が書きたかったのかしら。ヘネシーが効いているのかな?やつはうまいね。
まだアルプラゾラムが効いてこないのかな。涙が止まらないと眠れないじゃないの。
早く寝ないと明日家事ができないじゃないの。

このブログはなるべく前向きに書きたかったんだけどね、ちょっと悲しいときに気持ちを書くと頭の中が整理されるなぁと最近思い始めた。

多分、グリーフとして次の目標はさっき書いて余計に泣いた例のことを認めることだと思う。
そのためには多分、きちんと仏壇に向き合うところから始めよう。


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信頼関係

あくまでね、きいたんがふっと「しみっちはもういないんだ」と意識が変わった理由について考えた内容です。グリーフは人それぞれですので、他の方を批判する内容でもないし、私達のことを自慢する内容でもありません。

私たちは二人でいるときもストレスはありませんでした。
そして、一人ずつでいる時にもさほどストレスはありませんでした。

もちろん、喧嘩することもたまにありましたし、しみっちの躁鬱病がひどかったときには本当に苦しかったです。喧嘩の原因の多くはドラクエ関係でしたが・・・
大抵はどちらかが怒って、片方がううううと黙っちゃうようないざこざでした。

お互いが一人でいる時にも、不安がありませんでした。今、相方はどうしているかなとか、もちろん不倫の心配をしたこともありません。信頼関係が強かったからです。会話もちゃんとありました。信頼関係の根底には会話があると思います。会話と実績と。
職場でかっこいい人がいれば、「◯◯って男らしいんだよ!トイレに携帯落としたら拾って洗って使ってるんだって!」とか報告します。さらに「◯◯のパンツ見せてもらっちゃった。金魚だったよ!」とか。
さすがに「△△におんぶしてもらって走って遊んだよ」と言ったら怒られました。

しみっちも飲み会があった時には誰が来ていたのか言ってくれます。私から聞きますが(≧▽≦)
そのうち飲み会には行かなくなりました・・・
だって酔っ払ったしみっちはかわいいから、しみっちが飲み会に行くのやだなぁとか言ってしまったから。

私たちは会話と実績がずっと続いて強い信頼関係と絆を築いてきました。

しみっちが入院している間、私たちは頻繁にLINEをしていました。しみっちが検査の時は反応がありません。ああ、検査なんだなと思います。
病院が遠かったことと私が怠慢だったことで、私はそれほどお見舞いには行きませんでした。その間しみっちは大丈夫だ、こなくていいと言っていましたが、本当は寂しかったと思います。
それでも、それが私達の関係でした。そういう信頼関係がありました。
お見舞いに行かなくても、しみっちが寂しくても私達の関係は絶対に壊れない。

私達の関係は絶対に壊れない。

これが大事なことだと思うんです。

去年はしみっちがいないことが不安で、いないことが信じられなくて、どうしていいか分からなくてパニックを起こしていました。わなわな震えて泣き出したら止まらず、呼吸もうまくできなくて、なにも考えられない。
だから抗うつ剤を飲み始めました。
ちょっとハイになるようなものでした。

私達の結婚生活はしみっちが家事をやるという了解のもとに始まっています。
私の母が「この子は何もやらないから困るでしょ」と言ったときにしみっちはコソコソ話で「そんなの知ってるよね」と私に言いました。そういう私を結婚相手に選んでくれました。

私には生活の基盤が何もなかった。だからまず、そこをどうにかしないと何も始まらないんです。グリーフケアどころじゃなかった。

わたしの「素敵なお料理ブログ」をご存知の方にはわかると思いますが、私は日常生活に必要な家のことを出来るようになりました。悲嘆を抱えながらキッチンに立って、しみっちの代わりに自分で自分の面倒を見る。とても大変な作業でした。包丁の使い方からはじめました。一人暮らしをしていた頃は自分でやっていたのですが、キッチンに立たずに10年あまりを過ごすうちに、包丁が怖くて触れなくなっていました。
当初は実家の母とはあまりうまく行っていなくて、むしろしみっちママのほうが頻繁にうちに来てくれて、包丁の使い方を教えてくれました。

そうしてゆっくりと、一年以上かけて今の素敵で美味しそうなお料理を作れる私がいます。
ここで初めて、「しみっちがいない」ということと向き合えるようになりました。

これまでも時々妄想会話はしてきましたが、記事として書き、それを文字として文章として読み返すと、どうやら脳が勘違いするようです。しみっちと会話したと。
その時の安心感は、凍ったしみっちの手を握ったときと同じくらい大きなものでした。もちろんそれは、しみっちと買い物に行くときに手をつなぐのとは比較にならないほど小さな安心感ではあります。

「私達の関係は絶対に壊れない。」

どんなに離れていても、例え二度と会えないのだとしても、私達の関係は絶対に壊れないのです。
私がそう信じることが出来るのは私達の15年の実績があるからです。
私がしみっちを愛していて、しみっちが私を愛しているからです。
それは私が社会に出て、別のパートナーを見つけたとしても続く関係です。だって、私達の関係は絶対に壊れないんですもの。

去年、私が泣いていると隣でしみっちが号泣しているようでした。
私がパニックを起こしているとしみっちが近くでオロオロしているようでした。泣きながら。
しみっちが泣くと、きいたんを泣かせちゃうね、そう言っているような気がしました。
私が泣く時はしみっちも泣いていると感じました。しみっちのほうが泣き虫でしたし。

私にも家事ができるようになって、しみっちも一つ不安から開放されたのでしょう。しみっちも、私達の関係は絶対に壊れない、そのことを思う時間ができたのだと思います。
私の変化としみっちの変化は同時に訪れるものだと思っています。私たちはそれだけ、二人で一つです。

私は鬱の目安にプログラミングをしています。
始めのうちはなんとか動く状態のソースでも、少し鬱が良くなってから見直すとムダなロジックが入っていたりしました。良くなるにつれてプログラミングの精度もあがりましたし、組み立てるスピードも早くなりました。

マンガを書き始めてからずっと作りたかったロジックがあります。久しぶりのDOSバッチで作りたかった。今まで使っていたのはJavascriptです。Javascriptはしみっちが家にいる時にはあまり使っていなかった言語です。DOSは私が働いていた時にもちょいちょい作業効率のために使っていました。しみっちを思い出す言語でもあります。
そのDOSバッチが、マンガを書き始めて140回を超えて、ようやく着手することができました。とても短いロジックなので完成はわりとあっという間です。

しみっちも見ていたと思います。
私たちは何かを乗り越えたんだと思います。

私はPCの前ではっと、「しみっちはもういない」ということを理解しました。
その時にはどうして突然、そんな転機が訪れたのかわかりませんでした。

改めてよく考えて至った結論が、ここまで書いた内容です。

私という人がいる限り、私達の関係は絶対に壊れない。それは本当に永遠につづくもの。

しみっちが終わったときに、とても悲しくていろいろおかしな状態でした。おかしな頭でふと思ったのは、「これでしみっちは永遠に私のものだ」ということです。
でも、そうではなくてもともと私達の関係は絶対に壊れないし、私達の関係こそが永遠だったのです。

私の中に、幼いころからずっと信じて存在している私だけの神様がいるように(何教でもない、私だけの神様です)、私は常にしみっちと共にあるんだという信頼が安心感を生むのだと思います。

勘違いしないで下さい。
今だって悲しくて毎日泣きます。特にしみっちに関係するブログを書いている時には泣きながら書きます。
私は書くことで考えを整理することができますし、将来読み返して自分の辿ったグリーフの道程を客観的に見つめ、誰かの役に立てればと思っています。
その割にかなり関係ない記事が大量にあって、あぁ、カテゴリ分けを間違ったかな、とも思っています。
私は泣くと、メガネを外して涙を拭き、メガネを拭いてメガネをかけます。かなり文章が中断されます。大変なんです。

今の泣き方は純粋にしみっちが今ここにいないこと、これから先もここにいないことが寂しくて悲しくて、そしてしみっちが寂しいのではないかと思って泣きます。
気持ちが安定していないので、しみっちと関係ないことでも突然涙が溢れます。心療内科の先生はそのことを心配していますが、今はこれでいいと私は思います。
私は気の強い子でしたし、いつでもスキを見せないように振る舞ってきました。それだけ人生で涙をこらえてきました。今は泣けるだけ泣くときなんじゃないかと思います。

しみっちからもらった(と思っている)メッセージがあります。

しみっちはこの循環バスをここで降りるから、あとはきいたんが頑張って。一周回って戻ってくる時にはこのバス停にしみっちは絶対にくるけれど、きいたんは途中で乗り換えてもいいから。でもしみっちはきっと来るから。それまできいたんは頑張って。

ごめんねでも、ありがとうでもなく、しみっちが伝えてきたのは、私のこの先のことについてでした。そういう人です。私のことを一番に思ってくれる人です。
私は私のことを一番に思う人です。それが私達の関係です。

私達の関係は絶対に壊れない。

これが今の私を支えてくれる大切な信念です。

明日のことはわかりません。もしかしたら、ここに書いたことなどすっかり忘れてまた去年の自分に戻っているかもしれません。でもそんなときにこの記事を読み返して、あ、そうだっけ?と思えたらいいなと思います。



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トラウマ

虎と馬だと思った小さい頃・・・


結局眠れず、少し前に一応ベッドに行った。涙が止まらなくなった。
現状じゃなくて、一年前の最初の数日。それがトラウマ。あの恐ろしくて眠れずにベッドにいた日。

ベッド怖い。

以前もベッド恐怖症になったことがあって、その時は日中もベッドで本を読んだりしてベッドに慣れることで治った。

もっと早くに気づいてアルプラゾラムを飲むべきだった。

ソファベッドはあの頃泊まってくれていたTKNSTや母に用意したもの。
開き方が分からなくてガタゴトしてたらTKNSTが「こう?」と開いた。

眠れない日々があって、私がソファベッドに座ってTKNSTが床暖に座って二人で映画を見ていた。
私はソファベッドで少し眠った。
起きたら肝心のシーンも映画も終わっていて、TKNSTもコートを羽織って床で寝ていた。
私が起きた気配ですぐに起きた。

「あのあとどうなった?」って聞いたら、「ええ?私も寝てたw」

二人で笑った。初めて少し楽しいと思った笑い。一時間くらいだったけれど、初めてぐっすり眠った。

だからソファベッドのほうが安心する。

最初の夜はずっと疎遠だった両親とうまくいかずに追い返して一人でベッドに入った。
怖くてたまらなくて母に電話した。
その後TKNSTに電話した。

その頃の恐怖がトラウマ。

気温のせいだろうか。その頃のことがどんどん頭を占めてきて涙が止まらない。

アルプラゾラムを飲んで、ソーダ割りを作って飲んで、タバコを吸い始めるまで手が大きく震えていた。
あー俳優さんってすごいなぁ。おんなじ震え方するよなぁとか思いつつ震えてた。

タバコはコンロのところで吸う。
コンロには「テマエ」という文字がある。それを見るたびに「テルマエ・ロマエ」みたい、と思う。
ちょっと楽しい考えをしてもこんな時はいまいち役に立たない。
しみっちと一緒にテレビで見て大笑いした。今はそういうことを思い出しても大きな情動を伴った涙はない。懐かしさのほうが大きい。

だから随分落ち着いてきたと思うんだけど、あの恐怖の日々のほうがトラウマになってる。

今朝はぐっすり眠っていたムニュがタバコの臭いにつられて起きてきた。
癒される。

こうやって記録を残しているうちにアルプラゾラムが効いてきた。
アルプラゾラムよりセニランの方が即効性があるけれど、セニランは飲むと寝てしまうのでアルプラゾラムに変えた。仕方ない。

私はアルコールに弱い。アル中の心配もだけれど、とにかく経済的で助かるw

やっぱり落ち着かない時は仏壇を見る。そうすると、ノーテンキな顔をしたシミッチュンもいる。

少し前にポテチとシーチキン食ったけど、なんか食べようかな・・・

おや、なんだろう。ムニュがメッチャ呼んでいる。
「むぅむぅ」から「むにゃー」に変わったから、そろそろ行かないと。



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20に怒られないうちに書いておこう。
腹が減ったので、イワシの缶詰を食べることにした。


先生という職業に付く人を散々悪く言うニュースがいくつかあった。
ニュース見てないから知らないけど、今はおさまってるかなと思うので、私の先生を書きたかった。待ってた。

小1の時の先生が好きだった。いつも大体黒っぽいジャージだった。

背が低めなので目線があう。
優しい先生だと思っていたが、あとから聞くとえこひいきがあったようで、意地悪されていた子もいたとか。
出張が多く、帰ってくると全員にお土産をくれた。

覚えているのは鉛筆。それぞれ文字が入っているのだが、私は「一歩一歩進め」、だったと思う。

図工の時間だと思うけど鳥の絵を描くことになった時、先生は黒板にかわいいカラスの絵を描いた。
私はその絵がとても気にいって、随分長いことノートの落書きに使っていた。

小2の時にはその先生がいなくなって、リンダになった。リンダは生徒たちがつけたあだ名だが、リンダと呼んでも怒られなかった。
子供の頃の私は今以上に面食いだったので、あまり好きではなかった。いつも緑のジャージだった。

小2の時と小5、小6の時がリンダだったので、どの時点でのことか分からないが、お寺の息子にちょっとしたキラキラネームの生徒がいた。
その名前をクラスの男の子がからかったとかで、休み時間のあとに泣いていた。
そうしたらリンダが「とってもいい名前だと思うわよ」と言ったので、みんなシーンとした。
同じ子が今度は牛乳が飲めないとかでからかわれた。
そうしたらリンダが「飲めないものは飲まなくていいの!」と怒ってこれまたクラスがシーンとした。

小3の時は少し美人の先生だった。ジャージではなくてスカートとかはいてきていておしゃれだった。
でも、ちょっとなぁ、と思うことが時々あった。怒りっぽかった。

なんか多分、いつも同じクラスになる小太りのM君がいる。彼は少し発達が遅れていたらしく、国語もままならなかった。
小3か4の頃に、家で国語の教科書を朗読して親がチェックシートにサインするという宿題が毎日あった。
父母会でM君のお母さんが、すごく大変なんです、毎日1時間くらいかかります、と報告したらその宿題はやらなくなった。

毎朝歌を歌いましょうというHRが始まって、誰かが模造紙に歌詞を書いてみんなに教える。
M君は普段出来の悪い子だったけれど、このHRでは大活躍だった。
M君に教わったマルセリーノや雪山の歌は今でも覚えている。大人になってから、あれ?悲しげな歌ばっかやな、と思った。
M君とか、他にも授業にものすごくついていけない子をちょっと見下した感のあった私だが、そうではないのだなと学んだ。

この頃仲がよかった友達が、少し悪い噂のある子だった。そうしたらこの先生は私達がつるむことを否定してきた。
結局私たちは離れたが、それが良かったのか悪かったのかわからない。
友達はうなだれたけれど、そのほうが良いと思ったようだったし、その後も私が困っている時に助けてくれたことがある。私を許してくれていた。
あの出来事は私の人生を本気で180度変えたと思う。あのままつるんでいたら、多分私はすごい人になっていた気がする。悪い方で。
それでもその友達と一緒にいたことで、少し弱気だった私が本当に強気を張れるようになった。ビクついていても表に出さない、タンカヲキル(?)、そんな世渡り術を自然と習得した。女の子を蹴っちゃいけないこともw

この先生も途中でいなくなった。
去る時に生徒一人ひとりに、活字印刷用のはんこみたいなものをくれた。銀河鉄道の夜で働いてた子が扱ってたやつだと思う。
私がもらった文字が「道」
ずっと大切に持っていて、いつも「道」について考えた。今はなくした。

小5になってまたリンダ。
今度も父母会で、生徒の一人をプールの授業の時に「太ってるんだから寒くないでしょ」と暴言を吐いてしまったことを謝ったらしい。
母にその話を聞いた私は「まぁ、ほんとにデブだからな。」と答えたw

小6になると、他のクラスはナイシンショを書いてもらうのが大変だったらしいが、リンダはそれほどダダをこねずに書いたようだった。
それでも、中3の時の先生は私が帰国してからの学力で選びなさいと私立校の分の他に公立高校の分を2校分用意してくれたから、ナイシンショがどれほど大変な作業なのかよくわからない。


私は勉強ができていたからというのも大きいと思うが、先生に不満がない人生だった。


誰に言われたかわからないけれど(多分リンダだと思う)、先生を超えていけ、というニュアンスの話があったと思う。
それは私の人生でとても大事だった。
親は超えていい、先生を超えていい、教授を超えていい、上司を超えていい。
その考えは「超えてやろう」となって私の向上心を育てた。


朝のHRの時間に先生が話す時間がいつもあった。
その話はいつもちゃんと聞いていた。そういう積み重ねが私の芯を作ったと思う。

そう考えると、よくない先生にばかり当たった人は本当に残念だなと思う。

ちなみに・・・この表情はリンダにちょっと似ている(・∀・)ウン!!
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ネルゲル

ドラクエの最初の方のボスにネルゲルっていうのがいた。
当時は二人して寝る時に「ネルゲル」って言ってた。

そう。もうこんな時間だからネルゲル。

対処しきれないことが起きて、私は自分の記憶を一生懸命探した。
なにか生き延びるためのヒントがないかと。

最初のうちはそれがバックグラウンドで暴走して、日常がうまく機能しなかった。
抗うつ剤の使用が続いてしばらくすると、オーバーフローはおさまって有意識で探索する割合が増えた。

初めて身近な人がなくなったのは母方の祖父。
その少し前に初めて会った。母が私を病院に連れて行った。とてもうれしそうに起き上がって私の頭をなでてくれた。とても大きな手だった。
母の話では私が生まれた時にとても喜んだそうだが、知らん。
母は末っ子で、戦後に祖父が豊かになっていく時期に育ったこともありとても可愛がっていたようだった。でも母の話では反発心が強くて母はあまり許していない様子。なんだか噛み合わない親子でじーちゃんかわいそうだなぁと思うので、時々「どうしてママのパパの写真は飾らないの」と聞く。先日は「見つからない」と言われた。打つ手なし。

その時に葬儀に出たのか記憶がないが、法要(かな?)に行った記憶は二つある。
一つは電車の吊革につかまっている喪服の父の腕に寄りかかってうとうとしていたもの。
もう一つはお寺の駐車場に止めたレンタカーでやっぱりうとうとしていたもの。
こんな断片的な記憶をどうして覚えているかというと、喪服のパパがカッコヨカッタカラ!

小6のときだと思うが、人生の一覧を書くことがあった。
5歳の欄に祖父がなくなったことを書いた。書くことがあるのが嬉しいと思ったけれど、「死」というものは分かっていなかった。

小学校高学年のころにピアノの先生がなくなった。まだ若くて娘さんは幼かった。去っていく霊柩車を小さな女の子が追いかけたので、みんな泣いた。
なくなった当日は私の授業の日だった。いつものようにインターホンを鳴らすと先生のお母さんが出て「今日はちょっとできないの」と言われて帰った。

この時も、悲しいものなのだなと知ったくらいで、特別深い悲しみにはならなかった。

おじが亡くなったときも、たまたま前日にいとこの家に泊まって、出勤前のおじにアラレちゃんのマンガを買ってもらった。
訃報の電話があったとき、私と母は買い物に出かけるところだった。なぜか私が靴を履きたがらずにいると、電話がなった。
通夜でいとこがおじにお酒を飲ませた。ものすごく悲しい場面だと思った。それだけだった。

前後して母の友人が亡くなった。
訃報を聞いた兄が突然泣き出した。私は驚いた。

3歳しか違わないのに、兄は「死」ということを理解していた。

社会人になってから、父方の祖父が亡くなった。最後まで元気でほぼ昏睡状態になってからも自分でトイレに行こうと立ち上がろうとして大騒ぎになっていた。
葬儀に出たら、祖母が「来てくれてありがとうね」と私に言った。当然のことなのに?とこれも驚いた。
古い人達の結婚はいろいろ違うらしいが、祖父母の間には愛がみてとれた。今更ながら、あのときの祖母の気持ちが分かる気がする。

2000年、兄が亡くなった。通勤の電車で涙をこらえられない日が続いた。しみっちがいてくれた日々。

その後立て続けに母の兄弟が3人亡くなった。母は一人になった。
最年長が確か祖父で、母はもうすぐその歳を超える。とても不安だろうと思う。

10年位前に父方の祖母が亡くなった。
その時はとても悔しい気持ちでいっぱいになった。会社をやめて時間が取れるようになるから、祖母と会うこともできるだろうと思っていたときだった。退職予定日の数日前のことだった。
葬儀の時は香典を忘れてしみっちと二人でコンビニに走って間に合わせた。あらら。

5年ほど前にラン(実家の犬)が他界した。父はロス鬱になった。ペットロスには早く次の子を迎えるのがいいんだけどねとしみっちに話した。父にとっては無理な話だ。今も犬の「い」も言ってはいけない。

どんなに記憶を辿っても、なんのヒントも見いだせない。
それでも、少しは足しになる気がする。だから続けてしまう。


あの日、両親が何を着ていたのか見てもいない。
ただ、待ち時間に缶コーヒーが飲みたいと言ったら、パシリのような勢いで父が出ていき数種類の缶コーヒーを持って戻ってきた。私の好みを知らなかったのだ。
パパらしいと思って心のなかで少しくすっとした。泣きながらでも・・・そういう自分が好き。

いつでも、震えた時には缶コーヒーを飲んでた。缶コーヒーとタバコ。これで気持ちが落ち着く気がしてた。
あの日から、缶コーヒーは買わない。飲むのがこわい。

リラックスする方法があっても、結局しみっちとの思い出につながるので使えない。
それでも記憶を探して何かを見つけたくて過去をめくっている。

あらかた探したので、先に進んで未来にヒントを見つけたいと思うようになった。



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 (Amebaのしみっち)

おしゃべりしみっち

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KEYWA

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ムニュはマンチカンの女の子。そろそろ私と同じ年頃♡タロンはポメチワハーフの男の子。アキャンはブリティッシュショートヘアの姫で、マルコはスムースのダックス胴が長い。夫との死別から5年経ちました。二人で暮らしたアストルティアへ帰るのが目標です。 地上ではADHDのパートナーと暮らしています。私はASD傾向強目。
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●しみっち
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 1969年5月18日生まれ。
 A型。
 2015年1月30日没。
 2002年7月14日からきいたんの夫。

●きいたん
 1973年5月16日生まれ。
 世界のB型。
 2002年7月14日からしみっちの妻。
 都内在住➡離脱。
 現在恋人同居中。
 

●ドラクエの二人
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 (「しみっちょ」と「きいたん」)
 種族:プクリポ

●CHY
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 恋人(画像はイメージです)

●ムニュ
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 2010年9月3日生まれ。
 マンチカンのメス。

●両親(ママ&パパ)
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 70超え。都内在住。
 


●シミッチュン
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 しみっちのかわりに連れて歩いている手乗りすずめ。本当はすみっこぐらしの子。


●TKNST
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 1973年6月生まれ。 
 くわ型。
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